*一部当時の呼称をそのまま記載(「看護婦」等)
1966年(昭和41年)4月、65歳を迎えたミス・リリアス・パウル(ミスパウル)、慣れ親しんだ長野県小布施の地とそこでともに生きた職員や地元の人々に別れを告げ、母国カナダの地に帰還されました。周囲の人々は日本に永住することをすすめ、ミスパウル自身もその気持ちがあったようですが、「老後の生活で日本の友人に迷惑をかけたくない」と帰国を決意されました。
来日以来この地で、患者や職員に対する大きな愛情と自制をもって働き続けた彼女らしい潔さが溢れた最後の決断であったようです。そんなミスパウルの人生とは・・・・。
1901年(明治34年)3月26日 | カナダオンタリオ州クラントンにて長女として生まれる |
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1919年(大正8年)3月 | ストラッド師範学校入学 |
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1920年(大正9年)3月 |
同校卒業 その後10年間は小学校や中学校の教師として教鞭をとる |
1930年(昭和5年)9月 | ニューヨーク市聖ルカ看護婦(師)学校入学 |
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1933年(昭和8年)6月 | 聖ルカ看護師学校卒業 |
1933年(昭和8年)9月 | キリスト教伝道師養成学校入学 |
1933年(昭和8年)12月 | 同校卒業 |
1934年(昭和9年)6月8日 | 来日 |
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1934年(昭和9年)6月25日 | 新生療養所チャペル献堂式出席 |
1935年(昭和10年)6月 | 総婦長に就任 |
1939年(昭和14年)6月 |
休暇でカナダに帰国 戦争の激化により日本に戻れなくなる |
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1947年(昭和22年)6月22日 | 帰任 |
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1947年(昭和22年)6月~ 1948年(昭和23年)年6月 |
全館を一時閉鎖(荒廃した建物を改修のため) |
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1950年(昭和25年)4月 | 本館及び炊事棟の大部分が火災により焼失 |
1966年(昭和41年)4月末 |
定年退職(65歳) 天野寿恵に後任を託す |
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1966年(昭和41年)6月10日 | 午後1時 横浜出航のアイベリア号で帰国 |
1968年(昭和43年) | 山彦会寄付によりミスパウル記念館(ミスパウル元居住住宅)開設 |
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1972年(昭和47年) | 山彦会ミスパウルを小布施に招待 |
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1975年(昭和50年) | 山彦会会員有志がカナダを訪問 再会を果たす |
1989年(平成元年) | 故郷カナダで88歳の天寿を全うする |
2003年(平成15年) | ミスパウル記念館が町宝指定 |
2015年(平成27年) | 特定非営利活動法人パウル会設立 |
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ミスパウルはカナダのオンタリオ州クラントンにて生まれました。同州のモリス・ハイスクールに入学、そしてストラッド師範学校へと進み地元で教師の道へと進みました。
(カナダ オンタリオ州)
小学校や中学校の教鞭をとり充実した日々を過ごしていたようでしたが、当時たまたま日本の結核患者の窮状を知ったミスパウルは、日本に行って結核看護に奉仕したいとの願いを抱くようになったようです。心の中に生まれたこの志は着実に大きくなり看護学校とキリスト教伝道師養成学校を卒業後、10年にわたる教員生活にピリオドを打ち、結核看護に身を捧げるため渡日することとなりました。
ミスパウルの家族は両親と弟、妹でありました。 看護学校とキリスト教伝道師養成学校を卒業したばかりのミスパウルは、引き止める年老いた両親を説得して日本に来日しました。この後、母親が昭和14年、休暇で帰国する直前に死去し、父親は戦後再度の来日後に、弟は40代の若さで心臓病にてこの世を去りました。定年後、ミスパウルの帰国を母国カナダで待っていたのは妹一人でありました。
現代と異なり、当時の国境を越えた移動が大変な困難を伴った時代にあって、65歳までの日本での奉仕を決意したことは、ミスパウルが自己の人生すべてを捧げて働くことと受け止めていたものと思われます。
一年間、日本語の勉強を行った後、新生療養所二代目の総婦長に着任しました。
当事の最先端の結核医療を提供し、貧しい患者にも治療の門戸を開いた新生療養所は瞬く間に満床となり、増築増床も間もなく満床となってしまう状況でありました。創立期に総婦長の重責を受け継いだミスパウルは身を粉にして結核看護に打ちこみました。
1939年(昭和14年)、休暇のためカナダに一時帰国したミスパウルは、太平洋戦争が勃発したため日本に戻ることができなくなってしまいました。 ミスパウルをはじめカナダミッションのメンバーは本国への帰国を余儀なくされ、日本人だけでの療養所運営は困窮を極めることとなりました。
戦争が終結し、小布施に戻ったミスパウルは療養所の再建に奔走しました。
荒廃した建物を修復するために、全館を一年間閉鎖し、全職員の総力をもって建物を含めた療養環境を自らの手で修復を始めました。
白衣ではなく紺のズボンをはいて、ネッカチーフで髪をまとめ、男性職員の先頭に立ち、自ら台に乗り天井を拭いてまわり、汚れたしずくが腕を流れ伝わりました。
この頃、母国から父の訃報が届き、そっと涙を流されながらも療養所再開に向けて進み続けたミスパウルでありました。そのような姿が当時の職員の心を強く引っ張っていったようです。こうして1948年(昭和23年)にスタート博士の帰任と時を同じくして療養所は再開にこぎつけたのです。
1950年(昭和25年)、本館と炊事棟が火災にあい、その大部分を失い再び閉館に至ってしまいました。しかし、内外からの大きな支援を受け翌年1951年(昭和26年)には再建することができました。新築の病院の床を磨くことは非常に重労働であったようですが、ミスパウルはこの時もやはり先頭に立ち床磨きに励んだようです。「日本の姑さんは(私より)もっとやかましいでしょう」「日本人はよく働きます」と明るくウイットに富んだ雰囲気をつくり職員の心を前向きに引っ張っていったようです。
近づくことすら恐れられていた結核患者のために、患者の汚物まで進んで処理する献身的な看護を率先し、患者はもちろん医師や部下の看護婦たちにも大変に尊敬される仕事ぶりでした。しかし、ミスパウルの持つ誠実さは時として頑固なまでの厳しさとして表現されることがありました。
患者が安静時間を守らないことや、散歩時間が少しでも長くなることがあると容赦なく叱る、面会時間や面会場所はどんな事情があっても(時に医師が特別に認める場合でも)ルールを違えることは許さないなど患者の療養に関するルールについては徹底していたようです。「患者さんを一日も早く退院させたい」という強い信念が厳しさという形で強く表れていたようです。
多くの退院した患者は後年になって「入院していた時は快く思わなかったが、回復したあと想い返すとミスパウルの徹底した対応は結果的には自分たちの益となっていた」ことを感謝していたとのことでした。
職員の勤務姿勢についても厳格な見解をもって見守り、看護婦が勤務時間を過ぎて仕事を続けていると「残っている人(次のシフトにあたっている職員)があとはできます」と厳しく時間を守らせ、週休は必ず与えるだけでなく、他の休暇も理由さえたてばよく便宜をはかっていました。超過勤務について看護婦間で論議されることもしばしばあったようですが、「オーバーワークはしなくてもよいはずです」と現在にも通用するような労務に関するバランスの取れた見識をもって職員の状況を見守っていたようです。
普段は規律を重んじ、厳しい態度で看護にあたっていたミスパウルでしたが、ひとたび私的な立場に立つと全く柔和な対応に変わり職員は戸惑うほどであったようです。私邸に招かれたときなど、コーヒーやケーキを次々笑顔で振舞いながら、話題を必ず職員の身辺のことなどに向け細心の心遣いを欠かさなかったミスパウルでした。
ミスパウルの足跡は医療の中にのみ留まらず、地域にお住いの住民の方々との交流の中でのあたたかい物語の中にも残されています。
そんな物語が絵本の中で紹介されています。
『世界一のパン チェルシーバンズ物語』(文屋) 1,980円
戦争による困窮、火災による建物の消失などを乗り越えて日本の結核治療・看護において大きな貢献を果たすところとなった新生療養所には、全国の諸団体施設から見学や研修の依頼が増えていきます。
*記録に残っているところを以下に記す。
1947年(昭和22年)~1952年(昭和27年) | 東京都下の日赤その他公立病院婦長、主任看護婦の見学実習を行ない、30病院から延べ43名を受け入れて、教育・指導(東京都衛生部看護課の要請による) |
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1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年) | 国立長野療養所附属看護婦養成所の講師として看護倫理、看護史の講義を担当 |
1951年(昭和26年)~1952年(昭和27年) | 長野国立療養所の看護婦23名の実習を受入れ指導 |
1951年(昭和26年)~1953年(昭和28年) | 信州大学医学部の依頼により看護学生30名の実習指導 |
1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年) |
信州衛生保健婦養成所より11名の実習生受入 その他受入機関(大阪府国立療養所、大阪府立羽曳野病院、近江サナトリウム、聖路加国際病院、榛名荘病院他)多数 |
1966年(昭和41年)、定年退職を迎えるミスパウルには様々な分野から長年にわたる新生療養所とその療養患者に留まらない大きな貢献に対して感謝の意が顕されました。
*記録に残っているところを以下に記す
長野県知事 保健衛生功労で表彰
厚生労働大臣 天皇賜杯
日本看護協会 感謝状(記念品として蘭の花を浮彫にした飾り皿) 他
ミスパウルの定年退職にあたり、現任職員や退職職員、そして山彦会(退所患者と職員の会)が主催して新生療養所の庭でお別れの会が催されました。山彦会の会員は全国から150人が参加して、散り始めた桜の下でミスパウルの功績を讃えるとともに、苦しくも懐かしい療養生活の想い出話が尽きなかった時間であったとのことです。厳しさの背景にあった深いミスパウルの想いをあらためて「元患者」が感じ入ったひと時となりました。
*山彦会によって作成された冊子より(ミスパウルから寄せられたメッセージ 全文)
*字句は原文よりそのまま掲載
「今から思いますと、もう33年も前になります。初めてこの日本に来る話がありました時は、本当に嬉しくて忘れられません。新しい、大変美しいエンブレス・オブ・キャナダ号でした。そして初めて、“船の病気”もいたしました。
1934年6月16日横浜に着きましたが、あちらもこちらも目の前は一杯字ばかりで何も読めず判りませんでした。そのときばかりでなく、それから後もずっと字や言葉がむずかしいと同様に、自分のことを相手の人に判って貰うことが何よりも非常にむずかしいと思いました。世界中の人々が、お互い理解し合うためには、おなじ言葉であるのが必要だと泌々思います。そうすれば戦争も少なくなると思います。
その6月末、チャペルの開かれる式があって、始めてハミルトン主教と御一緒に小布施に参りました。そのあと、患者さんの散歩の道を私も散歩したのですが、ブヨが多くて体中たべられました。まだ新しいのでブヨもおいしかったのでしょう。
それから5年間、小布施ではたらきました。
1935年休暇でカナダに帰ったミス・ブッチャーが、そのあとスタート先生と結婚されて、困ってしまい、急に私が婦長になりました。そのため日本語を勉強する時間がなくなりました。
その後、ちょうど休暇でカナダに帰っていましたときに戦争となり、そのまま8年間カナダにとどまりました。戦後、教区は日本にゆずられていましたので、私は日本聖公会から招かれたわけですが、住む家があること、一年分の食料を持ってくることが規則でした。一年分の食料を選ぶことに私は余り困りませんでした。カナダの北の方にいましたとき、1年に一度しか便がなく、1年分のものを一度にたくわえる生活をいたしましたから、そんな状態で、荷物をあけましたとき、ジャガイモから芽が出ていました。8年も小布施を離れていて、帰ってきたのでしたが、昨日までずっと小布施にいた様な親しい気がしましたのは、不思議なくらいでした。
それからずっと今日までふり返ってみますと、実に沢山の患者さん達が、みんな勇気と忍耐と協力と、そして親しみによって次々と社会へ復帰し、幸福な生活に戻って行かれましたことを、心に強く憶えております。長い間には勿論問題もありましたけれども、それを覆う程にみなさんの忍耐と御親切の数々を思います。悪いお天気の日もありましたが、好いお天気の日ももっとありました。小布施を中心にこの信州の山河の美しさは決して忘れられないでしょう。
清々しい朝、静寂の夕、この自然の中に祈るとき、すぐ詩編121-1.2(聖歌393)のことばが胸に湧いて参ります。
「われ山に向かいて目をあげん、わが助けはいづこより来るべきぞ。わが助けは主より来たる、主は天地を造りたまえり。」
新生病院敷地内に残されていたパウルさんの居住していた建物は、看護婦寮などとして使用され、時間の経過の中で老朽化していきました。ミスパウルとの思い出を大切に思う山彦会の会員たちは寄付を募りその建物の補修とその後の保存を申し出ました。改修を終えた建物は「ミスパウル記念館」として生まれ変わり、ミスパウルが働いていたころの佇まいを伝える場所となりました。この後は主にゲストハウスとして使われることとなりました。
「ミスパウル記念館」として残されてきた建物も時間の経過とともにさらに老朽化が進み、維持管理に非常に困難が生まれてくる状態になりました。病院と山彦会だけでは何とも対策が講じきれない状況に陥ったところで、小布施町の住民の有志の中からこの建物の保全を願う声があがりました。人生を賭してこの病院を生み出し、育ててきた先人たちの足跡を後世に伝える大切な資産としてこの記念館を残していくことに多くのこの病院を愛する人の輪が地域の中で高まっていきました。行政への働きかけや修繕、その他たくさんの支援が展開され「小布施町の町宝」として認定されるに至ったのです。
ミスパウルがこの地を離れてから長い時間が経過しました。日本において結核の時代は遥か昔に終焉し、世界に類を見ない超高齢化社会が訪れています。
日本の医療については治療(キュア)領域の技術的レベルは世界の中でもハイレベルになっているところですが、療養など(ケア)の領域は高齢化社会を迎えるにあたってまだまだ心もとないところにあるといえるかもしれません。
パウル会が設立されるに至った流れは以下のような理由です。
◎キュア領域を中心とした医療分野を主に担う新生病院がカバーしきれないケア領域(看護、介護、福祉分野)を担っていく
◎ケアの分野でパイオニアたる仕事をしていくうえでのミスパウルの業績功績と生き方に学び、ミッションの精神とそこで働くものとしての姿勢を継承する努力をする
療養の場が病院だけではなく在宅や施設に広がり、多くの方が様々なサポートを必要としています。ミスパウルが実践してきた看護は、国境(場所)や人種(対象)を制限したり、それを理由とすることなく、入院した多くの患者さんをキュアし、再び日常の生活の場に戻れるようケアしてきました。ミスパウルの実践してきた看護は、看護師を志したものであれば必ず共感し目指したいと思える看護の原点です。看護の在り方が多様化する今の時代だからこそ、ミスパウルが実践し目指してきた看護に立ち返り、新生病院グループの一員として職員一人ひとりが自らの看護や介護の志を再確認していくこと。先駆者の原点・大切にしてきたものを変わらず大切にし、そして時代に合わせて変化をする中に、新生病院の未来の看護の姿があると思っています。