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理念・歴史 私たちのDNA

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基本理念・基本方針

新生病院の基本理念

わたしたちはキリストの愛と精神にもとづき医療を通して全ての人々に仕えます。

1.キリストの教えと行いに学び、「全人医療」を実践します。
2.全ての人々に、人や人種による差別なく、小布施という「地域」の中から「世界中」の人々に。
3.キリストの精神である「仕える」ことによって「新たな生」が始まります。

新生病院の基本方針

善意から生まれた病院


 昭和初期、日本は大恐慌の中、町には失業者があふれ、「亡国病」と恐れられていた結核が蔓延していました。カナダ聖公会から日本聖公会中部教区に派遣され日本国内で伝道活動をしていた宣教師団(カナダミッション)は、教会内部にまで迫る結核の猛威に心を痛め「たとえ沢山のことができなくても、百分の一の仕事でもこれは我々のなすべき義務である」として、結核療養所の建設を母教会に訴えました。この活動の中心メンバーであったJ.G.ウォーラー司祭らによる説得によりカナダ聖公会全体のキャンペーンとして受け入れられ、募金活動がカナダで開始されていきました。日曜学校の幼い生徒が1ダイム(25セント)銀貨をきれいに磨いて教会に持っていったというエピソードも語り継がれています。

 一方、日本国内では日本聖公会中部教区主教のハミルトン師を責任者に、実務を長野在住のウォーラー司祭が担当して療養所の候補地探しが始まりました。しかし、自然環境が結核療養に不適当なことや、住民の反対が続き、全国で33の候補地が交渉失敗に終わりました。34番目の候補地として考えられた小布施は乾燥した内陸性気候が結核療養に適した環境であり、建設反対の住民による訴えがありながらも、当時の村長池田文平氏と村の有力者の善導により療養所建設が決まりました。ウォーラー司祭による9カ月の交渉と幾多の困難を経てのことでした。交流により異文化を受け入れていく小布施人の気質が、療養所建設に至る一因であったことでしょう。

1932年(昭和7年)3月30日、新生療養所の棟上げ式では村人総出ではないかと思わせるほど大勢の見物人が訪れました。

当時の小布施の風景。後に患者たちは療養所の自然と献身的な医療に心身を「救われた」と語っています。

 そして、当院の前身である新生療養所は1932年(昭和7年)9月に開設となりました。このときの療養所建設にかかる費用はカナダ聖公会の全額出資によるもので、カナダの人々の善意により療養所は誕生しました。

 現在の新生病院は、カナダ聖公会から受け継がれた希望という種が小布施という土壌で芽吹き、培われてきたものです。「すべての人に仕える病院」「癒しと看取りの医療」という開設時のミッションを今日まで受け継いでいます。

1932年(昭和7年)9月9日、内外の客人を招いて盛大な開所式が挙行されました。

創始者たちの志


 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 『新約聖書』-ヨハネによる福音書(ヨハネ伝)第12章24節

 一粒の麦は地に落ちると、この一粒の麦自体は死ぬが、そこから芽が出て多くの実を結ぶようになります。今では、一人の犠牲によって多くの人が救われるというたとえで使われています。新生病院の創始者たちは以下に紹介する方たちをはじめ、1ダイム銀貨を募金したカナダの少年、療養所建設を受け入れた小布施の方々、新生療養所開設時以来、病院の歴史を支え続けてきた職員など、「人を生かすために生きる」ことに人生を捧げた方たちばかりでした。創始者たちの志(利他の心)は現在新生病院で働く全ての職員の礎となっています。


R・K・スタート

リチャード・ケンプ・スタート
(1900~1977)医学博士
新生病院(当時、新生療養所)
初代院長

 カナダクイーンズ大学卒業後、オンタリオ州の療養所に赴任し結核と胸部疾患を専攻して研究。カナダ聖公会より日本での結核療養所建設計画への参加要請があり、1931年(昭和6年)来日しました。日本に渡ってからは、日本語を勉強しながら軽井沢夏季病院にも勤め、この間に結核療養所の建設地探しなど、忙しい日々を過ごしました。1932年(昭和7年)7月には、看護師ミス・ブッチャー(後のスタート夫人)、日本人スタッフらと小布施に入り、新生療養所開設の準備に本格的に携わります。同年9月、新生療養所(現在の新生病院)開設に伴い初代所長を務めていきます。

 スタート博士は医療宣教師としての力量と卓越した人格で多くの人の心をつかみ、新生病院のあり方の精神的基盤を作り上げていきました。
帰国後は神学を学び、1964年(昭和39年)聖公会聖職となります。
1977年(昭和52年)山彦会(※注)の招待で来日直後、心筋梗塞のため急逝。享年76歳でした。

 日本人とその風土をこよなく愛し、厳正なキリスト者として自らを律してきた博士は、隣人に対して徹底した愛の人であり、その姿勢、生き方は人々に多大な影響を与えています。

※注 山彦会…スタート博士との交流を通して心の支えを得た元患者と、ともに医療活動を通してその人格に敬愛の念を抱く元職員とで作る親睦の会

創立当時の職員。写真右から3人目がスタート博士

新生病院内にあるスタート博士を記念した「スタートハウス」


ミス・パウル

ミス・リリアス・パウル
(1901~1992)看護師
二代目看護師長

 1934年(昭和9年)新生礼拝堂の完成とときを同じくして、ミス・パウルが来日しました。1935年(昭和10年)、スタート博士と初代看護師長ミス・ブッチャーの結婚を機に、ミス・パウルは二代目看護師長の職に就きます。ミス・ブッチャーと同様、ミス・パウルも規律に厳格な職場を作り、特に清掃について厳格だったミス・パウルは率先して院内を清めたといいます。正しいものと間違ったものを明確にして、ときには入院している方に注意するのが気の毒に思えるようなことも、はっきりと注意していました。しかしこれは、常に患者第一の信念があるから出来ることであって、愛ある奉仕の姿でありました。また、看護師の独自性、女性の人権尊重の必要性を説き、信仰を通して多くの人に訴えていました。

 こうした看護師の教養、技術を高めていった新生療養所は、全国の模範施設として知られ、東京、大阪の大病院などからも実習看護師の派遣が相次ぎました。

 1966年(昭和41年)に定年退職するまでの30年間、小布施の地で結核患者に半生を捧げたミス・パウルの貢献は計り知れません。

1968年(昭和43年)、ミス・パウルの宿舎を改修して「ミス・パウル」記念館の完成。小布施町の町宝となっています。


J.G.ウォーラー

ジョン・ゲイジ・ウォーラー
(1863~1945)
カナダ聖公会司祭

 1890年(明治23年)カナダ聖公会が日本への宣教師として初めて派遣したのがウォーラー司祭です。キリスト教の伝道のため来日したウォーラー司祭は長野市を中心に活動しましたが、長野市は当時仏教徒が多かったため、伝道活動に相当な困難があったと言われています。しかし、不屈の精神をもって伝道活動に励み、徐々に理解者を得ていくのでした。

 ウォーラー司祭の最大の事業の一つとして、当院の前身となる新生療養所の建設が挙げられます。昭和初期の日本における結核の蔓延は、日本を滅亡させる「亡国病」と恐れられ、多くの若い生命も奪っていきました。ウォーラー司祭はこの惨状をカナダ聖公会に報告し、日本における療養所建設を強く訴えた結果、療養所建設が決定しました。

 建設にあたり、カナダでの募金運動や、建設候補地探しなど幾多の困難を経て、1932年(昭和7年)新生療養所は誕生しました。初代院長のスタート博士を日本へ招聘したこともウォーラー司祭の熱意と努力によるものです。どんな苦境に立たされても初志貫徹する強さを持つウォーラー司祭がいなければ、新生療養所開設は実現しなかったことでしょう。


池田文平

池田文平
(1895~1962)
元小布施村長
(在職期間1930~1934)

 1930年(昭和5年)に小布施村(現在の小布施町)村長に就任。世界的な経済不況の中、就任当初から小布施村も財政難に陥っており、千曲川の護岸工事などの失業救済事業が行われていました。

 そういった中、日本聖公会から小布施村への結核療養所建設の話が挙がります。日本で恐れられていた結核の療養所が小布施に出来ることに対して、建設反対派の住民からは猛烈な抗議がありましたが、中には建設予定地の売却による利益や建設工事により失業者の救済ができるという賛成派もいました。賛成派だった池田氏は、候補地探しの先導者であったJ.G.ウォーラー司祭とともに反対派住民に対して「療養所は消毒を厳重にするので家よりも衛生的である」と説き療養所建設が決まります。療養所建設にあたっては、地元の労働者の雇用を確保するため、池田氏個人が総請負人となりカナダ聖公会と請負契約を交わしました。村の経済復興のため、並々ならぬ覚悟を決めた池田氏の姿がそこにはありました。

理事長メッセージ・院長メッセージ


新生病院 理事長 唐沢 彦三

新生病院 理事長 唐沢 彦三

 カナダ聖公会が、日本の結核で苦しんでいる多くの者を救うため、この小布施の美しい風景の地に結核療養所を建設されました。結核は亡国病と恐れられていましたが、賢明な小布施の人々が土地を提供し、募金をつのり、療養所の建設に貢献されたといいます。そして時を経て一般病院となり総合病院化が進み地域の人とともに病院は育てられてまいりました。

 今、経済の進展と生活の豊かさの中で、少子・高齢化社会を生み出し、新たな生活習慣病を始め、診療の質も変わってまいりました。開設以来、その時どきの医療に追われながら、そこに住む人、病に悩む人を癒し、生きる喜びを矜持し、病院も地域の一員として努めてまいりました。これからの病院の進むべき方向は、一段と質を高め最先端の施術と技術そして人材を求め、地域の人たちが安心して暮らすことができる病院として充実していかなければなりません。

 介護・福祉の分野を地域と一緒になって広めながら、21世紀型のグランドデザインを描き、絶対にあきらめない医療・介護をして、地域における中核的病院としての責務を果たしてまいりたいと存じます。


新生病院 院長 大生 定義

新生病院 院長 大生 定義

 2017年6月1日より院長として就任しました大生(おおぶ)と申します。

 新生病院は、カナダ聖公会の宣教師達が、当時日本で「亡国病」と恐れられた結核の窮状を救おうと、多大なる支援を投入し、開設した結核療養所から誕生しました。1932年(昭和7年)のことで80年以上の歴史があります。図らずも私の医師としての初めの17年は聖路加国際病院に、直近の11年は立教大学に勤務しておりました。ともに聖公会関連の組織であり、縁を感じております。どうぞよろしくお願いします。

 本病院は現在、一般病棟(地域包括ケア病床含む)、回復期リハビリテーション病棟、ホスピス緩和ケア病棟、療養病棟の4病棟155床からなるケアミックス病院です。「住み慣れた環境でいきいきと暮らしたい」という願いに応えるよう、在宅療養支援病院として在宅診療に力を入れ、地域医療構想に参画し、小布施町唯一の病院として公益につながるような地域包括ケアシステムの構築に尽力したいと考えております。換言すれば原点である、地域に根差した病院として、本院の歴史を築き上げた先人達の志を受け継ぎ、理念にある「全人医療」を実践していく所存です。そのとき、その場面にふさわしい医療・介護・保健活動を提供すべく、医療職・介護職・関連事務職などとともに患者さんや家族の方々とも「チーム」を組みながら、活動ができればと思っています。

 現在、特定医療法人新生病院は、「介護・看護・福祉サービスを提供するNPO法人パウル会」、「海外活動も含めて社会貢献事業を展開するNPO法人ワンダイム」とともに新生病院グループを形成し、連動しながら、効果的な活動を目指しております。ひろく地域の方々、利用者の皆様のご要望にお応えしたいと思います。これからもどうかご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。

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